他人は嫌い。自分も嫌い。だった。
僕は人間嫌いだ。
何処かの誰かの書いた小説のような書き出しのように感じられるけれども、本当のことだ。
社会性を持つ生き物である人間という種族の中でそういう風に思うようにプログラムされているのだろうと最近は開き直っているが、だからと言って人間嫌いが治るわけではない。
そして嫌いだからこそ、新たな繋がりを欲したりすることはなかった。
なかったということは今は違うということだ。
そのようにプログラムされていたところを薬剤で改変されてしまっており、新しい繋がりを作ることに関してあまり嫌な感じをすることがなくなってきた。
なぜ人間嫌いだったのか。それは他人が恐怖だったからだと思う。どういう反応をされるかわからない者に対してわざわざ声をかけたりする必要性などないのではないのかと常々思っていたのである。
では、今はどう違うのかというと、お薬の影響なのか恐怖感を感じることがなく元からの持っている性格である心配性であるとか親切心であるとかそう行ったものが前面に出てきてしまっているような感じがするのである。これは別に自分がいい人であるということを言いたい訳ではないが。
自分の話が出てきたので自分についても考えてみたいと思う。先ほど書いたような心配性とか親切心なども持っているが基本的に面倒くさがりで楽をしたがるタイプの人間である。また、平気でサボったりごまかしたりすることもする。
まぁ、人間らしい人間なのかもしれない。だから自分が嫌いなのかもしれないなぁと今思ったりもしている。
あとこれも書いておかなければならない。子どもが大嫌いだ。何を考えているのかわからない、というか発達途中であるがゆえの訳のわからない行動。これが嫌いだ。自分の子供のことである。理由がわからないのだ。それにイライラする。
ただ、そのことに対して寛容になってしまう自分にもイライラしてしまうことが多い。
さて、ここまで書いたところで、そうじゃない人はどういう人かというのを書きたいと思う。
要は好きな人だ。
まず第一に挙げられるのがパートナーでもある妻。なぜ好きなのかなどと聞かれても理由などない。
だからこそパートナーとして選んだのである。理由があったらその理由が消えてしまったらパートナー関係を解消しなければならないじゃないか。
そういうのは嫌だから、理由のない人こそパートナーとするべきだと思い結婚をした。
時々喧嘩もするけれど理由もなく好きなのでこちらが折れてしまうことが多い。でもそれでいいと思っている。この人に対して通さないといけない筋は自分の一生をかけることだけだから。
そのほかの人はどうだろう。実は僕には友人というものが今現在はいないと言える状況にある。
これは今までの自分が悪かったのだろうが、やはり他人への恐怖感というものが関係していたように思う。今の薬を飲んでいる状態であれば、おそらく定期的な連絡などは難なくこなすだろうが、今ままではそれができなかった。なので小学校、中学校、高校と卒業するたびに友人はいなくなった。
ネットでは気になる人へは比較的積極的にアプローチするようになったのではないかと思う。最近は。
以前はみてるだけだったのが、コメントをしてみたりするように変わってきている。
そういう訳で、最初の文は訂正をしないといけなくなってきている。
僕は全ての人間が嫌いという訳ではない。と。
そしてそういう自分が少し許容できている。