人間を社会の一員として歯車に例える話っておかしいよね。動力的に。
よく、こういう言い回しをする人がいるよなぁと思いながら、そういう人ほど酒飲ますと語らせてめんどくさいよなぁと思ういちごようかんです。
この話っておかしいよなぁといつも感じて居ました。
人間を歯車に例えたら、回してるの誰なん?動力源的な意味で
この歯車を人間にたとえて社会という歯車の塊をスムーズに回しましょうという話、一回くらいは誰でも聞いていると思うんです。
でもちょっとおかしいなとずっと思って居ました。歯車が人間なら誰が回してるんだろうっと。
動力源がないんですよね。なので回るはずがない。
モーター付きの歯車にしないといけないと思いまーす!
と言いたかったりします。
歯車はみんなについてるにしても、モーターが自分の歯車の大きさにあっているか、スムーズに回っているかが大事
歯車に例える話は悪くない例えだと思うんですよ。どんな人でも誰かに関わって回っていく。
でも、どんな人にも回されるだけじゃなくて回す力があると思うんですよね。
その力に差があることをしっかりと入れておかないと大きな歯車が偉い!みたいな話になりかねないのかなぁと思います。
子どもだって歯車を回すためのモーターがついているだろうし、働いて居ない人にもついていると思います。
僕みたいな双極性障害の人にもモーターがついてると信じたい。もしかしたらへんな動きをするのかも知れませんが(笑)
働いている人にはモーターが無理して居ないか、潤滑油がちゃんとあるか、ギアは周りとかみ合っているかそういうのが全部大事になるのかなと思います。
今まで聞いてきた中ではモーターがついている人は居ないか、誰かが手で回しているような印象でしかこの話を聞いたことがない
誰か、例えば会社の社長が全力でギアを回して部下がくるくるついていくみたいなイメージでしかこの手のたとえ話を聞いたことがないなぁと思います。
それで回るんならいいですけど、社長が居なくなったらその会社終わりますよね。って一度だけ言い返したらしばらく雪国に飛ばされた記憶があります。
以前の運送会社に勤めていたときですね。
まぁ、その時は笑ってだから俺のために働けって社長は笑ってましたけど。(雪国送りにしたのは部長か誰か)
ちょっと鬱状態になってきて、ふと昔のことを思い出したので書いてみました。
これから歯車の話をする方は動力源についてちょっと考えた方がいいんじゃないかなというお節介な記事でした。
では。