足をついてもいいやんか

ゆっくりのんびりですよ

帰りの電車に揺られながら思うこと

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帰りの電車の中でよく考えることがある。
自分はなんのために生きているのか、という事だ。
仕事をして給料を得て家族を養う。
まず頭に浮かんでくるのはそれなのだが、なんというかしっくりとこない。
不満なわけではない。妻も子供たちも皆好きだ。
家族に不満はない。

おそらく、問いに対しての答えの方向性が間違えている。なんのために生きているのか。生きることに対しての理由の何かに疑問を持っているのだと思う。
哲学のような固いお題のようだが、これってすごく大事な気がするんだけれども、いくら考えても全く答えは出てこない。
結局毎回曖昧なまま答えも出ずにいるのだ。

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とりあえず、家族を養う、次の世代を育てるという本能的答えに行き着いてしまうのであるが、やはりしっくりこない。
同じ年齢で結婚も子供もいない人はこの問いに対してどう答えるのだろう。パートナーを探すために生きていると人間の本能を果たすための答えをだすのだろうか。
もっと年齢が上の人でパートナーも子供もいない人はどう答えるのだろう。

理性は残酷だと時々思う。本能のままに自分の与えられた役割を全うし死んでいく。そのような人生ではダメなのだろうか。
何も考えず悩まず迷うこともなく、条件に沿って判断をし続ければいい。なぜ人間はそういう生命体では無いのだろうか。なぜ、そういう進化をはたして来なかったのだろうか。疑問である。
理性を得てしまったことによる個体の自死というのが発生している以上、これは生物としての生存戦略に影響してくるのではないのか。それとも無視できる数字の範囲内という判断なのか。
その判断を行なっているのが一体何者なのかわからないのも気味が悪い。遺伝子なのかそのほかの何かなのか。

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そんなことを考えながら、家に帰ってしまえばすぐに答えは見つかる。
子供たちの寝顔と作っておいてくれてある晩御飯。
幸せな気持ち。
これを得るために生きているんだろうなぁと気づく。

幸福感という感情を得るために理性を得たのだというのであれば、人間は素晴らしい進化をしたのではないかと思えるかもしれない。



しかし、その分、辛い。