平等とはから考えるベーシックインカム
少し上の世代のひとから僕らの世代の人って、小中学校では人は平等だよってすごく教えられたような気がするんです。
部落解放運動とかそういった歴史であるとか。
でも実際に人間って、人間の作る社会って平等なのかなと思うとそれは違うよなぁと感じます。
まずそもそも、社会の中のそれぞれの個が個性を持っているのにそれぞれの個が平等になれという方が難しいのかなと思いますね。同じことに対して違う答えを出すことが個性なので。
それが集団となると余計にややこしくなる。
結果として最大の集団である国であれば、国ごとに別れ争い悲劇を繰り返すことになる。
もっと小規模な集団であればいじめなど力関係がでてくる。
個に平等を求めても何になるのかなぁ、平等でいられる可能性があるのかなぁと思ってきてしまいました。
あまり宗教的や誰かの言葉に傾倒するのは嫌なのですが、どこかの言葉で、人の上に人を作らず、人の下に人を作らずという言葉がありますが、これを個に当てはめてこの言葉を守れる人がいるのだろうかと思います。自分はどうだろうかとおもって思い返しても、やはりそうはいかないなぁと思うところです。
平等とは権利である
さて、そんなこんなで平等を個人で実行するなんてことは不可能というかそれに近いものがあると思うのです。本当の偉人の人たちの伝記ではあったのかもしれませんが。
では、平等とは何が実行するのか。社会だと思います。社会。つまり集団。
社会や集団が実行するということはルールに組み込まなければいけないということです。
で、社会でいう平等とは一体何に当たるのか。
僕は機会の均等に当たると思います。
生きる機会、生を与えられる機会、育てられる機会、育つ機会、勉学を受ける機会、様々なことがあると思いますが、これが均等に隔たりなく全ての個に与えられること。
これが平等であると考えます。
そして、それは与えらえれて当然のこと。つまり権利であるはずです。
そうルールに記載されているから。日本のルールは日本国憲法をはじめとする各種法律ですよね。
とはいえ、個として拒否したいものもあるかもしれない
しかし、平等という権利とはいえそれはいらないという人もいるかもしれません。
権利の押し付け。それは困る
もしかしたらそれが今の権利の申請主義に繋がってるのかなぁと思ったりしていますが。
じゃあ、押し付けられると困る権利(義務ではない)を形を変えて得ることができればとてもいいんじゃないかと思ったりしています。
申請主義
で、今言葉に出た申請主義というもの。申し出ない限りその権利は行使できませんよってことなんですが、それってひどいと思いませんか。
知らなければ自分の権利を行使できない。つまり社会の中で平等に生きて行くことができないのです。
形になるお金をもらえるなどの権利、形にならないサービスの面で知らない権利がある場合は知らせてもらう必要があるし、申し込む必要があります。
・・・面倒じゃないですか?
・・・全員平等に受けれてると思いますか?
僕は両方ともはいだと思っています。
ベーシックインカム
ベーシックインカムという考え方があります。諸説ありますが最低限の生活保障を国が行うというものです。
生まれてから死ぬまで一定金額を条件なく支払うことで生活の最低限の保証を行うものとなります。
しかし、ある一定の枠を超える、いわゆる障がいと言われるものを持っている人達がいわゆる健常者と同じで生きていけるのでしょうか。
結局のところ申請主義となってしまい問題は変わらないのではないかというところまで考えてしまった。
しかし、そこにマンパワーを入れることで取りこぼしのない福祉施策ができるのではないかと考えた。
ベーシックインカムとすることで政府や地方自治体自体は業務が減ることが予想される。その分平等に権利を受けることができていない人たちの洗い出し・アウトリーチの方へ力を注げるのではないかと。
そんな理想を思い浮かべながら、今の世の中は何か生きづらさを感じるなぁと思います。そりゃ、昔に比べたら苦労は少ないのかもしれません。その分できることが増える。したいことも増える、できるようになる。
でも、だからと言って自由も増える、わけではないのだなぁと思いました。